旅が10倍楽しくなる解説付き!諏訪大社上社前宮ひとり旅



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3万株の躑躅(つつじ)がある鶴峯公園(片倉尋常小学校)でお花見ひとり旅

の続き。

これは2025年4月15日の旅です

ホテルのベランダから。ララオカヤ解体前の貴重な写真。


岡谷駅から中央本線で茅野(ちの)駅に来ました。



一瞬、西武デパートかと思いました。ベルビアというショッピングモール。


上川


県道197号上川橋


橋を渡って直ぐの交差点を右折し、県道16号を歩いています。


やってるのかな?コンビニ…


今にも雨が降りそう…というか地面が濡れているので降ったり止んだりしてるんですね。


公園?ちょっとした展望台と東屋があります。


宮川と宮川橋


橋の上から


安国寺西(あんこくじにし)交差点から国道152号の南側に沿って伸びている生活道路に入りました。車体整備店の敷地のようです。


水芭蕉(ミズバショウ)


杏(アンズ)?


ドブ川


全国に名を馳せた高遠石工の名工として知られる長左衛門(ちょうざえもん)が手掛けた巡礼供養碑などがお地蔵さまと一緒に陳列されています。


安国寺史考会の立札による解説 お地蔵さまは、人々のさまざまな願いごとに救いの手を差しのべてくださると昔から親しまれてきた。

近くの石造物は長左衛門奉納の石祠(せきし)と庚申塔と石幢(せきどう)の一部と供養碑二基である。

享保二年(一七一七年)のものは同行六人で出羽(山形県)月山に巡礼した記念に、享和三年(一八〇三年)のものは半助・幸左衛門・繁右衛門の同行三人で秩父・坂東(埼玉県)の札所を巡礼した記念に建立したもので、昔の人々の苦難に耐えた姿が偲ばれる。
立札に「昔の人々の苦難に耐えた姿」と書かれている通り、ここ長野県茅野市宮川安国寺周辺は武田信玄と高遠頼継(よりつぐ)が争った安国寺門前の戦いの舞台でもあり、古くから戦乱や川の氾濫に見舞われてきました。

そうした困難な歴史の中で亡くなった人々の供養や、地域の安全を祈るために設置されたものと考えられます。

小町屋の辻。大祝(おおほうり)の道など、信仰的にも重要な場所であったこの場所が慶応元年(1865)5月に起きた大入り(山津波・土石流)で道や集落共々埋まってしまいました。


恐らく先ほどの長左衛門が手がけた石造物なども一緒に埋まってしまったが、道などを改修する際に掘り起こし、犠牲者の供養の意味も込めて再び祀り直したと考えられます。


大祝の道とは諏訪大社の現人神が、前宮から四賀(しが:現在の諏訪市方面)の御所へ移動する際に通った由緒ある道のこと。お神輿の中には数えで12歳の千代宮(ちよみや:後の諏訪頼忠)が入っています。

四賀の御所とは現在の長野県諏訪市四賀にあった、諏訪大社の最高神官である大祝の住居兼、政治・祭祀の拠点のこと。諏訪大社において大祝は現人神(諏訪明神(建御名方神)の身代わり)として絶対的な権威を持っていました。その大祝が住む場所を、敬意を込めて御所と呼んでいました。

古代、大祝は諏訪大社上社前宮のすぐ近くに住んでいましたが(これを神殿(ごうどの))、中世(鎌倉・室町時代)に政治的な中心が移り(理由は後述:イラストから察すると思いますがw)四賀に御所が構えられました。

前宮と四賀の御所を結ぶ道は単なる生活道路ではなく、神の化身である大祝が行き来する非常に重要な道でした。その重要な道の途中にあった小町屋の辻は当然ながら多くの人が集まり、三宝荒神(さんぽうこうじん)の大市のような大規模なお祭りが開かれるほど。そこが埋まってしまったわけですから、そりゃあもう大変です。


三宝荒神は火の神、台所の神として庶民の間で極めて信仰が厚い神様でした。茅野市周辺は古くから火災を恐れたため荒神様をお参りすることは生活を守る上で非常に重要でした。

三宝とは仏教において最も大切にされる宝物のことで…

仏(ぶつ):悟りを開いた「仏様」(お釈迦様など)
法(ほう):仏様が説いた「教え」(真理)
僧(そう):教えを守り、修行し、伝えていく「集団(僧侶)」

を指します。

中央の双体道祖神(舟形の石に男女の像が寄り添って彫られているやつ)は信州・諏訪地方に特有の形態で、辻(交差点)にあって村に災いが入るのを防ぐ境界の守り神。


グーグルナビに従って歩いているんだが…ここは私有地じゃないのか?


でかっ!


立札には柏手社と書かれています。先ほどの現人神や大祝について書かれていますね。

ここが諏訪大社の祭祀において食と即位を繋ぐ重要な場所であったことを示しています。柏手というと現在では参拝時にパンッパンッと手を叩くことを指しますが、元々は膳部(かしわでべ・ぜんぶ)、つまり料理を司る職名を指していました。

古い時代、柏の葉は神聖な食器として使われており、ここで神様に捧げる食事を調理していたと考えられています。


家が半分埋もれてるが…もしかしてこれが土室(つむろ:後述)なのか!?


しかし通路は綺麗に整備されてますな。


お?四方が御柱で囲まれている…もしかしてあれが?


信濃国一宮諏訪大社上社前宮の拝殿でござ~い~。


上社前宮は諏訪大社四社の中で最も歴史が古く、諏訪信仰発祥の地として伝えられています。


国譲り神話でタケミカヅチと勝負して出雲から諏訪へ敗走したとされる建御名方神(たけみなかたのかみ)が最初に居を構えた場所と言われています。


上社なので根は勿論4本の諏訪梶の葉。


少し前の記事でもお話ししましたが、諏訪の梶の葉紋には根が4本の諏訪梶の葉(上社)と、5本の明神梶の葉(下社)があります。


電気が点いてます。


奥にある本殿を拝見。



破風の装飾も…ちゃんと根が4本であることをチェック!


小町屋の中小路。ここには現人神(大祝)直属の家臣たちのお屋敷が建ち並んでいたと考えられています。画像中央を流れる小さな水路は諏訪大社前宮の神域を流れる清流「水眼(すいが)」。


参道は北を向いています…珍しい。


愛松(あいしょう)と号していた中村甚之助さんが養蚕業の改善や寒天製造の奨励に力を注いだ事について讃えた頌徳碑。


頌徳碑の近くにはレリーフも。左は中村甚之助、右はその子である中村甚右ェ門。


近くにあったマンホール。国宝土偶である仮面の女神と縄文のビーナス。尖石・与助尾根(とがりいし・よすけおね)遺跡の復元竪穴住居。八ヶ岳連峰と北八ヶ岳ロープウェイ。茅野市の木、白樺。高山植物のニッコウキスゲ(黄色い花)。そして中央に茅野市の市章…盛り込み過ぎだろ!w


前宮水眼広場



巨木の近くにまた立札が。


御室社(みむろしゃ)

中世(鎌倉・室町時代ごろ)まで、ここには半分地下に埋まった形の土室が作られていました。毎年、旧暦の12月22日に御室入りという儀式が行われました。現人神とされた大祝(子供の神様)や、神職のトップ神長官(じんちょうかん)たちがこの土室に籠りました。

そこには蛇の形をした麻背(ソソウ)神と、建御名方神が諏訪にやってくるより以前からいる土着の神様であり実体のない御左口(ミシャグジ)神も一緒に祀られ、冬ごもり(穴巣始:あなすはじめ)をしたといいます。

実体のないミシャグジ神(精霊)が、ソソウ神(ヘビの依代)に宿る…つまりこの二つが揃うことで強力な神の力が発揮される。そこで一緒に生活することで子供が現人神になれると。

この神秘的な儀式は翌年3月の御室出しまで…つまり2~3ヶ月土室の中で続けられました。諏訪信仰の中でも特に重要で特殊な神事とされていましたが、残念ながら中世以降に途絶えてしまいました。

ミシャグジ神とは諏訪地方に古くから伝わる、石や木、自然に宿る精霊のような神様。

冬ごもりとは神様が冬の間、地下で力を蓄え、春に再び現れるという古代信仰の形。

諏訪大社では幼い子供が神様そのものとして崇められていました。その子供が大祝として冬の間、神長官と一緒に暗~い地下室で過ごしていたという歴史を伝えています。

では誰が大祝に選ばれるのか?気になりますよね。大祝は諏訪氏一族による完全な世襲制でした。諏訪大社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)直系の子孫が諏訪氏であるとされ、その一族から選ばれた子供だけが現人神になれると考えられていました。

神長官(守矢氏)が神を呼び降ろし、大祝(子供)に乗り移らせる秘術を持っていたと言われています。

右の細長い建物は奥行十間(約18メートル)の十間廊(じっけんろう)で、本日行われる御頭祭の会場になります。


この十間廊、古くは神原廊(ごうばらろう)と呼ばれ、諏訪大社の最高職である現人神(大祝)が各地からの貢物を確認する政庁としての役割も果たしていました。大祝は8歳前後の子供が15~16歳まで務めるとのことなので、つまり子供が一人で確認していたのでしょうか?

そんな訳ありませんね。確かに子供である大祝は主座で形式上の確認を行っていましたが、その周囲には強力なサポート体制が敷かれていたと。

イメージとしてはこんな感じ。


五官祝(ごかんほうり)という大祝を支える5つの重要な役職があり、彼らが実務を仕切っていました。


十間廊で行われていたのは単なる事務作業ではなく神聖な儀式としての確認でした。また、現人神として大祝がそこに座っていること自体が重要でした。子供の大祝が主座に座ることで運ばれてきた貢物が「神に受け入れられた」という形が整います。

なぜ子供を座らせたかというと、当時の人々にとって「子供の無垢な体を通じて神の意志が示される」と信じられていたから。貢物が届いた際、子供の大祝がニコニコしていたり機嫌を損ねたりする様子さえも神のご神託として受け取られることがありました。

つまり、十間廊は幼い神様(大祝)というシンボルを中心に、実務のプロ(守矢氏)と政治のプロ(諏訪氏の大人)が連携して機能していた場所といえます。

その隣には内御玉殿(うちみたまでん)。かつて諏訪大明神の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を祀り、諏訪の神宝を安置していました。

古くから諏訪明神の御神宝である真澄(ますみ)の鏡や八栄(やさか)の鈴、御鞍(おんくら)などが納められていました。幼い大祝が現人神として即位する際、この御殿の扉を開け、神宝の鏡を胸に掛け、鈴を鳴らして民の前にお出ましになったと伝えられています。

二の鳥居は銅板でカバーされた明神鳥居。


階段がありますね。ここは糸魚川静岡構造線の断層崖(だんそうがい)入口であり、それで土地の高さが変わっていると。


二の鳥居の先が、なだらかな坂ではなくカクン、カクンと段差になっているのが分かりますでしょうか?


上から見た方が分かり易いですかね?断層の活動によって盛り上がった(あるいは沈んだ)平らな面に十間廊が建っています。その前後にある急斜面が、まさに大地がズレてできた断層崖そのもの。


前宮の本殿脇を流れる水眼の清流も、断層の存在を示す証拠です。断層の亀裂は地下水の通り道になりやすいため、断層線に沿って水が湧き出すことがよくあります。水眼の源流は、本殿から約1km上方の断層の境界線上からピンポイントで湧き出しており、その水が参道脇を流れています。


手水舎

本殿の脇を流れる水眼の清流から引かれています。山奥の断層境界付近から湧き出ているもので、古くから神の通い路として大切にされてきた神聖な水です。

水眼という名前の由来ですが、一説には神様の目が届く場所(神聖な場所)、あるいは水が湧き出す目(源泉)といった意味が込められていると言われています。

他の三社(本宮(ほんみや)・秋宮(あきみや)・春宮(はるみや))では水道や井戸水が使われていることが多いですが、前宮は境内を流れる自然の清流そのもので手や口を清めることができます。

神紋穀の木


これのことですね。このモチーフとなった穀(かじ)の木が植えられていると。


穀という字は穀物の意味で使われますが、古くはカジノキの別名として使われていました。カジノキの樹皮は古代から神様に捧げる神聖な布や紙の原料として非常に重要でした。そのため単なる木(梶)というだけでなく生活や祭祀を支える大切な実りをもたらす木という意味を込めて、この穀の字が当てられたと言われています。


マップ。本殿の更に奥、古墳や水眼、守屋山があります。いつか行ってみたいです。


若御子社(わかみこしゃ)には諏訪明神(建御名方神)の御子神が祀られています。建御名方神には多くの子供がいたとされ、それら八柱(あるいは九柱)の神々を合祀しています。


ふ~まだ午前10時前なんだが色々見たなぁ。それぞれに分厚い伝承があってお腹いっぱいになってきたw


中世まで諏訪地方の政治と祭祀の最高拠点であった神殿跡(ごうどのあと)。1542年(天文11年)7月、武田信玄が諏訪に攻め込み、上社大祝・諏訪頼重(すわよりしげ)を甲府へ連行(後に自害)。この際、前宮の居館(神殿)一帯は戦火に包まれ、破壊されました。


え!?大祝って子供が務めるやつですよね!?ってことは子供に自害させたの!?

いいえ、諏訪頼重は数えで27歳でした。この時は戦国時代という特殊な事情で、政治的にも軍事的にも権威・権力を集中させる必要があったため諏訪頼重は大人になっても大祝を続けていたと。

連行の様子

27歳の武将でありながら現人神の気品を湛(たた)えた頼重が、住み慣れた諏訪の地を後にし武田の猛将たちに囲まれて連行される悲劇的な一場面です。この移動の先に彼を待ち受けていたのは甲府・東光寺での無念の自害でした…

滅ぼされた後、大祝の住まいは四賀へ移動した訳ですが、その後もここへ戻ってくることなく最終的には宮田渡(みやたど:諏訪市中洲)で定住したため、ここは跡地となりました。


地図で確認して頂けると分かりますが、四賀も宮田渡も神殿跡から数キロ程度しか離れてないんですよね。攻め滅ぼされたのにそんな近くに住んでいいの?

確かに信玄は諏訪氏を攻め滅ぼしましたが、諏訪大明神そのものを敵に回すことはしませんでした。むしろ、自分こそが諏訪明神の加護を受けるにふさわしいとアピールするため現人神である大祝の権威を必要としました。遠くへ追いやるのではなく自分の監視下(近く)に置きつつ祭祀を続けさせることが重要だったのです。

また、地元民への配慮もあったのでしょう。諏訪の人々にとって大祝は絶対的な存在でした。あまり遠くへ引き離すと地元住民の反発を招き統治が難しくなります。そのため、前宮という要害(守りにくい場所)からは出てもらいつつ、諏訪の聖域内に留めておくことが、統治上の妥協点でした。自分の拠点である桑原城から遠くなってしまうと守りにくいし監視も難しくなりますからね。桑原城跡は長野県諏訪市四賀桑原にあります。

更に信玄は子供による大祝を復活させます。驚異となる大人の大祝である諏訪頼重は消し去りました。その直後、信玄は頼重の親族の中から数えで12歳の千代宮を新しい大祝に据えました。

つまり信玄は、あえて大祝は子供が務めるという古い伝統に戻すことで、大祝から政治的・軍事的な力を奪い、純粋な祈りの象徴へと戻したのです。こうすることで、信玄自身が諏訪の実質的な支配者として君臨しやすくなります。

この少年が約40年後、武田氏が滅びた後の混乱の中で自ら兵を挙げ、ついに諏訪の旧領を奪還します。

一の鳥居です。今更ですが散策する順路が逆でしたね。ここでも糸魚川静岡構造線が活断層してます。


拝殿や参道が北の方を向いているのは善光寺と対面するためという説があります。後は御神体である守屋山の位置ですね。守屋山を背にするとどうしても北向きになってしまう。





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