鷲峰山法華寺で吉良左兵衛義周の悲劇を偲ぶひとり旅



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旅が10倍楽しくなる解説付き!諏訪大社上社前宮ひとり旅

の続き。

これは2025年4月15日の旅です

さて、次は御頭祭のスタート地点である本宮(ほんみや)に向かう訳ですが、神社に確認したところ始まるのは午後1時からとのことで…現在9:52で時間あるので今回は神長官守矢史料館や鷲峰山法華寺(しゅうぶせんほっけじ)などを中心に観光したいと思います。

ってことで、まだ前宮の近くですが桜が咲いてたので撮影。


また立札!所政社(しょせいしゃ)です。文字通り政(まつりごと)を司る所。かつてこの周辺には諏訪大社の最高職である大祝の居館があり、ここはその中心的な役所(政庁)のような場所でした。


ここでは諏訪大社に関連する領地の管理、裁判、徴税など世俗的な事務(所政)が行われていたと伝えられています。この社には政治を円滑に進めるための守護神が祀られています。


神事と政治が一体(祭政一致)だった時代の象徴的な社です。


諏訪共同生コン本社工場


物凄い雨が降ってきました。神長官守矢史料館に避難です。


入っていきなり生首の陳列。





雨が上がってきたので再び移動…大祝諏方家墓所の桜は満開!


なんだありゃ?藤森照信(てるのぶ)の高過庵(たかすぎあん)だとか。


神宮寺下り仁王門跡

明治の神仏分離&廃仏毀釈以前、この場所には上社本宮の神宮寺の仁王門が建っていました。お寺などは破壊されてしまいましたが仁王像はそれを免れ、現在は近くの法華寺などに移されています。石垣は当時の遺構です。

さぁ!上社本宮が見えてきましたよ!


東参道大鳥居。本宮(ほんみや)に3つある参道(北・東・西)の中でも、古くから本来の正門(表参道)として尊ばれてきた特別な場所。

別名「二之鳥居」「南鳥居」。明治25年(1892)に建立された高さ8.8mの銅製鳥居で、かつては大祝のみがここから境内へ入ることを許されたという格式高い入り口。

現在は駐車場に近い北参道が観光のメインとなっていますが、古くからの参拝ルートはこの東参道から始まります。写真右手に見える神橋とともに聖域への入り口としての「二重の結界」を形成しています。

この後行われる御頭祭もここを通って前宮へ移動します。

さて、お祀りまでまだ時間があるので鷲峰山法華寺の方へ行きます。


蠶玉神社(こだまじんじゃ/かいこだまじんじゃ)


養蚕とは関係ないと思いますが、ここに吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の養子(孫)にあたる吉良左兵衛義周(きらさひょうえよしちか)が亡くなるまで幽閉されていた歴史があり、供養されています。


義周は出羽国米沢(山形県米沢市)で米沢藩主・上杉綱憲(つなのり:吉良上野介の長男)の次男として生まれましたが、元禄3年(1690)5歳の時、実の祖父である吉良上野介の養子となり江戸の吉良家に入りました。

ややこしいですが吉良上野介の長男だった綱憲が上杉家の養子になり、その子供が今度は吉良家に養子として戻ってきたと…

元禄14年(1701)3月14日:江戸城・松の廊下で浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が儀式の最中に吉良上野介を斬りつける事件が発生。2回斬り付けられましたがどちらも致命傷にならず吉良上野介は一命を取り留めました。

喧嘩両成敗という原則がある中、幕府は「浅野が一方的に切りつけた」と判断し、浅野は即日切腹。赤穂藩は取り潰しに。一方、吉良にお咎めはありませんでした。このことが赤穂浪士たちの不満を募らせ、後の討ち入りに繋がる大きな要因となりました。ちなみに義周はこの場にいませんでした。

翌年、元禄15年(1702)12月14日:赤穂浪士(47士)が浅野の仇を討つため本所赤松町の吉良邸(墨田区両国)を襲撃。18歳の義周も父・上野介を守るため薙刀を持って戦い、背中や額に傷を負いながら奮闘しました。


しかし上野介は討ち取られてしまい、その首は浪士たちによって浅野内匠頭が眠る江戸の泉岳寺へと運ばれ墓前に供えられました。残された遺体の方は吉良家の菩提寺である万昌院(ばんしょういん:現在は東京都中野区)に葬られています。

討ち入り翌日の12月15日:幕府の命令により本所の屋敷は没収され、麻布(港区)の屋敷へ移ることになります。義周はここで外出禁止の処分を受け、沙汰を待っていました。

それから一ヶ月半後の1703年2月4日:赤穂浪士たちが各預け先の大名屋敷で切腹。同じ日、義周は幕府から当主としての不手際(戦いぶりが不十分だったことなど)を厳しく咎められ、吉良家の改易(身分と財産の没収)と諏訪藩への配流、いわゆる流刑を命じられました。


諏訪の高島城南の丸に幽閉されましたが、ここは三方を沼に囲まれ、柵が二重に巡らされた牢獄のような場所でした。厳重な監視下で外出もままならず、精神的・肉体的な負担が非常に大きかったと推測されます。


3年後の宝永3年(1706)1月20日: 満20歳(数えで21歳)で義周は病死します。元々病弱だったというだけでなく、度重なる負傷や絶望感、過酷な環境によるものと推測されています。


まとめ


そのお墓には後で行きます。

それでは先に進みます。


庚申塔のすぐ後ろにちっちゃい祠が…神宮寺学校跡と書かれています。大正15年(1926)まで繭倉(まゆぐら:繭の貯蔵庫)を改築した校舎があったそうな。


昭和6年(1931)に建てられたこちらの山門は2階建てで1階部分に屋根のない三間一戸の楼門。屋根は入母屋造の銅板葺。2階には火灯窓(かとうまど)が。

左には吉良義周の墓について書かれています。この奥にあるのですね。本堂は平成11年(1999)の放火により焼失したが、この山門は類焼(るいしょう)を免れました。

檀家との金銭トラブルや寺の運営をめぐる悩みなどがあった、ここの住職が放火したとのこと。逮捕され、懲役5年執行猶予なしの実刑判決を受けました。

門を潜ってすぐ左側の様子。


2005年に再建が完成した本堂。地面が緑でコーティングされています。


屋根には根が4本の梶紋。



本堂の裏に細い上り坂があり、そこを進むと…ありました!


吉良義周公のお墓ですね。


ここの立札にある吉良町(きらちょう)とは、かつて吉良上野介の領地があった愛知県幡豆(はず)郡にあった町のことです。現在は合併して愛知県西尾市吉良町となっています。

一般的な忠臣蔵では吉良家を悪役として描いていますが吉良町では上野介もその一族も領民を大切にした名君として慕われており、現在でも吉良町の人々がバスツアーなどでこの法華寺を訪れ墓参りを続けています。

お墓から見た本堂。


上空から見た境内。


北側です。左手に本宮、上側に巨大な参拝者用駐車場があります。


中央の丸い公園のようなものは諏訪インターチェンジ。その向こうに永明寺山(えいめいじやま)。


諏訪湖の反対方向。雲で隠れているのは八ヶ岳の最高峰赤岳(あかだけ)でしょうか。


境内


前宮方面ですが糸魚川静岡構造線の活断層の様子がよく分かるような気がします。中央の独立した丘陵は武居畑(たけいはた)遺跡といい、縄文前期の大きな集落跡などが見付かっています。





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