鳥谷崎神社ひとり旅



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花巻城跡ひとり旅

の続き。

これは2023年10月27日の旅です

鳥谷崎神社、又は鳥谷ヶ崎神社と書いて「とやがさきじんじゃ」。鳥谷ヶ崎については前回の記事(花巻城跡)で稗貫氏が本拠とした鳥谷ヶ崎城で既にお馴染み。


北上川の精霊をお祀りしたのが起源。江戸時代に行われた北上川の流れを変える大工事以前まで、この場所は川岸だったと思われる。『鳥谷崎』ですからね。

江戸時代に川の流れを変えた理由も度重なる氾濫や崖崩れですから、元々災害の多い場所であったことが窺われる。故に鎮守のため精霊を祀ったのが起源ではないかと。

この石垣の上に神社が見えるのですが、どこから入るのか…


創建不明。正和2年(1313)に社殿が再建された記録がある。

天文5年(1536)に稗貫氏が城内三の丸に鎮座していた当社、稲荷神社、八幡神社(源義家が勧請)の三社を合祀。鳥谷崎座三柱神社に改称。

ってことはこの石垣が鳥谷ヶ崎城三の丸ってことでしょうか。上れそうもありません。さすがお城。おいそれとは辿り着けないようになってるんですね。


天正19年(1591)の奥州仕置により稗貫氏が改易。当地は南部氏領となり、花巻城代に就任した北信愛(松斎)・秀愛親子が引き続き当社を崇敬。


慶長5年(1600)、前回の記事でお話した花巻城夜討ちで当社にも大きな被害があったが、直ちに社殿が再建された。

1613年に松斎が死去した後は盛岡藩主南部家の一族が花巻城主を歴任し、当社を引き続き庇護した。

明治初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃される。

明治末期、先の三柱に加え周辺の鎮守だった八幡神社、金刀比羅神社、神明社を合祀し六祭神となり、鳥谷崎神社に改称。

八幡神社が被ってますが神様はちゃんと六柱(豊受姫、誉田別(ほんだわけ:応神天皇)、豊玉姫、天照皇、須佐之男、大国主)います。

三の丸公園です。


綺麗な東屋とお手洗いがあります。朝からイーハトーヴォで遭難したりしてヘトヘトだったのでここでしばらく休憩しました。


円城寺門

慶長19年(1614)頃、花巻城の築城整備に当たり、和賀二子城の大手門であったものを引き上げて移築したもの。三の丸搦手(城の裏手)である円城寺坂に作られたことから円城寺門と名付けられました。戦後、現在地である鳥谷崎神社境内に移転され、花巻城唯一の遺構として市の文化財に指定されています。

ついに到着しました。


シンプルな神明鳥居。参道は真南より僅か西を向いてます。


手水舎


屋根にある家紋は割菱紋と南部鶴紋。


南部鶴紋は向い鶴紋(むかいづるもん)とか双舞鶴(そうぶかく)、向鶴などの呼び方がありますが、盛岡南部氏の一般的な家紋として知られています。


割菱紋は甲斐(山梨県)の武田氏家紋として知られていますね。何故それがここ岩手県花巻市の神社にあるのか?随分と距離ありますが…


南部氏について調べると、始祖の加賀美光行がそもそも甲斐源氏の流れを汲んでおり、武田氏の始祖である源信義は光行の叔父、つまり近い親戚であることが分かりました。


家紋の御由緒については諸説あると思いますが、例えば『甲斐源氏初代当主である源義光(新羅三郎)が楯無の鎧(楯を持つ必要が無いぐらい丈夫)の袖にあった割菱を家紋とした。』とするならば、これを武田氏やその流れを汲む南部氏が使っていても不思議ではないですね。

別の文献には『斜方形を象った割菱の文様は奈良時代から使用されていたが、家紋として使用したのは清和源氏義光流武田氏である。』と、タイミングは異なりますが、いずれにしろこの流れの中で家紋になったと。

また、南部と言う名称ですが、これは加賀美光行が甲斐国南部牧(山梨県南巨摩(こま)郡南部町)を与えられた事により南部氏を名乗ったことが由来です。

その南部氏の子孫が治めたからこの辺に南部という地名が多く残っていると。

つまり本を正せば岩手や青森にある南部とは山梨県の地名が由来であると。ある地域の南側に位置しているとか、そういう地理的な意味は無いと。

南部鉄器も南部せんべいも、その名称の由来は山梨にあると。

ちなみに当時の地図を見ると南部牧は甲斐国南端にあるので、ここで言う南部は方角的な意味だと思います。加賀美光行はそこを治めることになり、南部氏を名乗ったと。


こんなツイートを見付けました。

「県外の方に」と書かれていますが、コメントを拝見した所、地元民でもこの違いを理解してない人が殆どでした。

左側は岩手県の南側という意味で、右側は岩手県の中で南部氏が治めていた盛岡藩という意味でしょう。

それではお参りに戻ります。


拝殿


屋根にはもうお馴染みになった割菱紋と南部鶴紋。


本殿を拝見しに行こうとしましたが柵があって通れないのでここから。


どう見てもお稲荷さんですが学業成就・勝負必勝だそうです。花巻小学校にあったのを遷座したとのこと。

そのすぐ右隣りにあるのは花巻金勢神社。木造の男性器が祀られています。『ご神体を直接手や購入した宝くじで撫でてご利益をお受け下さい』とのこと…子宝・安産は良いとして、宝くじはちょっと…拝金主義な神社はイヤだなぁ…

稲荷神社専用の参道がありますので遡ると…神額に早坂稲荷神社と書かれています。

花巻小学校の北側に早坂御門跡(鳥谷崎城二ノ丸)があります。元はその近くにあったから早坂稲荷神社というのですね。

花巻御柱神社
明治以降の英霊が祀られています。


忠魂碑と湯殿三山


鳥居は靖国鳥居ではなく普通の神明鳥居です。


翌日…5泊6日の岩手旅行も最終日…といっても今日は帰るだけですが。
北上駅の東側にある北上川


川を散策していると駅の方から太鼓の音が。お祭りかな?


おぉ。お祭りではなくさくらPORT・HOTELの完成祝いセレモニーでした。


川岸かっぱ太鼓のみなさん。新幹線の時間まで暇だったのでありがたいです。


ポケモンには全く興味ありませんが、レアなマンホールなんだそうです。


専大北上高校吹奏楽部
生徒さんの顔が分からないよう画質を下げてあります。






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