【世界遺産】期間限定!復元中の首里城公園ひとり旅/自動車で首里城へ行く場合の注意点



2025年9月のお知らせ 講座を受講してから1ヶ月で元を取った方からお礼のメールを頂きました。このように、集中すれば短期間で結果を出せる人もいます。あとはやる気スイッチ押すだけ。

『クロス円という特殊な通貨ペアを利用して稼ぐ手法/クロス円でトレードするメリットと注意点』を配信しました。

旅トレーダーによるFX講座

雑談なし!FXに人生の全てを賭けるぐらい気合いの入ったトレーダーへ向けた【ガチのFX手法】をマジメに本気で惜しみなくお伝えする専業トレーダーによるセミナー ※ブログやYouTubeで表面的・基本的なことを学んでから受講して下さい。

著作権について本ページの写真は著作物ですが、出典を明記することで許諾なくご利用することが出来ます。ご利用の際には本ページのURL、又はリンクを誰が見ても分かるよう明記してください。加工して利用する場合も同じです。著作権侵害にご注意ください。
神奈川県立観音崎公園ひとり旅

の続き。

これは2025年1月27日の旅です

6:31am
羽田空港です。




8番ゲートからJAL903便に乗ります。


乗りました。USB端子が2つ。


さぁ!出発だ!


離陸~♪


雲の上に出ました。なんか白いのが…UFOかな?


11:09am
那覇空港に到着。インバウンドだらけ。


日本人はマスクしているのですぐ分かります。


自動車で首里城へ行く場合の注意点

この後レンタカーで首里城へ行きます。ナビは【県営首里城公園駐車場P1】に設定しました。何故なら正面の目立つP2入口は混雑すると予想したからです。

実際に行ってみたら私の予想通りで、正面のP2から入ろうとした車が係員に制止され説明を受けていました。どうやら満車のようでP1入口を案内されていた様です。

満車の看板の前でマゴマゴしている自動車↓


この車が私の後ろからピッタリくっ付いて来ました。P1はスムーズに入ることが出来ました。入庫の時刻は12:30頃。

但し!これは平日の話です。しかも風雨の激しい日。

つまり、天気の良い日はP1も満車になっている可能性が高い。週末なんか朝から並ばないと無理なんじゃないかと思います。私の様にレンタカーで来るインバウンドも結構いますので。

なので自動車で行く場合は周辺の駐車場も事前に調べておく必要があるかと思います。

それでもダメな事もあると思いますので、その時の為に他の場所を観光する計画も用意しておくと時間が無駄にならないかと存じます。

オーバーツーリズムってやつですね。

12:48
首里杜館(すいむいかん)
こちらはいわゆるビジターセンター。レストランやカフェ、おみやげ、休憩所、総合案内所があります。この地下に駐車場があります。それにしても漢字の読みが難解である。


ビジターセンターの正面入り口


シーサー


守礼門(しゅれいもん)
扁額は守禮之邦(しゅれいのくに)で【琉球は礼節を重んずる国】という意味。日本と同じですね。1527~55年、第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)の代に建立。沖縄戦で破壊され、こちらは1958年に復元されたもの。


園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
琉球石灰岩の門。国王が外出する際に安全を祈願する為の礼拝所で、人が通る為の門ではない。1519年、尚真王(しょうしんおう)の代に建てられた。こちらも沖縄戦で一部が破壊され、1957年復元。2000年に世界遺産登録。


歓会門(かんかいもん)
首里城の城郭へ入る第一の正門。歓会は歓迎という意。主に中国皇帝の使者である冊封使(さっぽうし)などを歓迎するという意味でこの名が付けられた。


冊封とは

冊命封爵(さくめいほうしゃく)の略。冊(さつ)は皇帝から与えられる詔書(しょうしょ:任命書)を指す。琉球王国が朝貢していたのは明や清であり、決して中国ではない。全く別の国、別の王朝である。ちなみに日本は2600年以上、同じ王朝である。
命(めい)は任命、命令のこと。封(ほう)は君主が臣下を封じる、つまり領地を与えることや、地位・爵位を授けること。封建の封ですね。
爵(しゃく)は爵位や官位を意味し、君主が臣下に対して与える地位や名号(めいごう)。

別名【あまえ御門(うじょう)】。「あまえ」とは琉球の古語で喜ばしいことを意味する。1477~1500年頃、尚真王の代に創建されたが、これまた沖縄戦で焼失。1974年に復元。両側のシーサーは魔除け。


歓会門を潜った所。


あの階段を上ると瑞泉門(ずいせんもん)
瑞泉は「立派な、めでたい泉」という意。別名【ひかわ御門(うじょう)】。樋(ひ)は川や泉から水を導く長い管、又は溝、或いは屋根の雨水を受けて地上に流す懸樋(かけひ・かけどい)等の事。沖縄では井戸や泉の事を全て川(かわ・かー)と表現する。「ひかわ」とは、こうした表現を合わせた言葉でフィージャーガーとも発音する。


この門の手前右に龍樋(りゅうひ)と呼ばれる湧水があり、それが名称の由来。創建は1470年頃で沖縄戦で焼失。1992年復元。アーチ状の歓会門とは異なり、双璧門の上に直接櫓が乗っている。このタイプは日本本土でも見ることが出来る。


両脇の石獅子は魔除け。



瑞泉門から久慶門(きゅうけいもん)の裏側を撮影
久慶門は別名【ほこり御門(うじょう)】ともいう。歓会門が正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用した。国王が寺院を参詣したり、浦添(うらそえ:沖縄の地名)以北の地方へ行幸する時等に使用した。創建は1477~1526年の尚真王代といわれ、1983年(昭和58)に復元。現在は出口専用。


蘇鉄(ソテツ)


漏刻門(ろうこくもん)
漏刻は中国語で水時計の意。別名【かご居せ御門(うじょう)】。身分の高い役人は駕籠(かご)で登城したが、高官でも国王に敬意を表しこの場所で下りた。創建は15世紀頃。櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計った。時刻測定係が太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナ、及び右掖門(うえきもん)で同時に大鐘を打ち鳴らし、城内および城外に時刻を知らせた。この漏刻制度は1456年の朝鮮の記録に【(琉球のそれは)我が国の物と何ら変わりない】と記されている。


廣福門(こうふくもん)
長御門(ながうじょう)、中御門(なかうじょう)とも呼ばれ創建年不明。扁額の意味は【福を行き渡らせる】。建物に門の機能を持たせた建物付帯型門(たてものふたいがたもん)。門の西側に神社仏閣に関わる寺社座(じしゃざ)、東側に戸籍を扱い財産争いなどを調停する大与座(おおくみざ)という役所が置かれていた。士族の家に子が誕生すると7日以内に大与座へ生子証文(しょうししょうもん:出生証明)の提出が義務付けられていたが、書類作成の手間などもあり提出が数年遅れる事もあった。田舎下りした士族ともなると10~20年遅れるのも珍しくなかった。この門は小学校の開校に伴い取り壊された。その為内部構造は不明のまま。しかし、古写真や平面略図、発掘調査等の分析を元に1992年、木造による外観復元が完成。現在は西側を御手洗、東側を券売所として利用。


右は首里森御嶽(すいむいうたき)という礼拝所。琉球開闢神話に依ると神が造られた聖地。城内にはここを含めて十嶽(とたけ)と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があった。左は奉神門(ほうしんもん)。【神を敬う門】という意味で正殿のある御庭(うなー)へ入る最後の門で、現在は有料エリアへのチケット売り場、兼改札になっています。創建年代は不明だが1562年に石造欄干(せきぞうらんかん)完成という記録があることからそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修。明治末期頃に撤去されたが1992年に外観が復元。別名【君誇御門(きみほこりうじょう)】。向かって左側(北側)は納殿(なでん)で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は君誇(きみほこり)で城内の儀式等に使われた。中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)等限られた人だけが通れる門。それ以外の役人は両側の門から入城。


チケット


有料エリアから廣福門を撮影


修復の様子を見学できます。もちろん修復が終わるまでの期間限定。




残骸が雨ざらしに展示されています。




世誇殿(よほこりでん)
未婚の王女の居室で、国王が亡くなると次期国王の即位の儀礼が行われた建物。国王家族と首里城に勤める女性達の生活エリアであった御内原(おうちばら)にあり、2019年に外観復元。内部は休憩所となっており、ちょっとした展示物があります。


東(あがり)のアザナへ向かう通路



寝廟殿(しんびょうでん)
国王が亡くなったとき一時的に霊柩(れいきゅう:遺体を納めた棺)を安置する所。


首里城…の復元工事をしているプレハブ



中央にある赤い屋根は沖縄青少年研修センター


沖縄県立芸術大学


風雨が激しく、のんびり撮影できませんw


内郭の外に出ました。途中にいくつか門とかありましたが、風雨が激しく撮影する余裕がありませんでした。雨というより風が強かった。


内郭の様子。中央にある牢屋みたいなのはガマ遺構と呼ばれる洞窟。琉球王国時代(1429-1879)の正史には記録がなく用途不明だが、それ以前のグスク時代末期(15世紀)から近代まで利用されていた痕跡は遺物から分かっている。伝承ではウシヌジガマと呼ばれ、首里王府の女官達が息抜きの場として利用していたとか。沖縄戦では塹壕として利用された。


東側の外郭に沿って歩きます。ここまで来る人は少ないです。


美福門(びふくもん)
継世門(けいせいもん)が建てられる前までは、ここが首里城の東門であったと考えられている。当初は赤田集落に面していた事から赤田御門(あかたうじょう)とも呼ばれていた。


継世門が建てられた後は石獅子(シーサー)が置かれていた事からシーサー御門(うじょう)と呼ばれるようになった。しかしそのシーサーが現在では見当たりません。


あっ、猫だ。


こちらが継世門



次の旅へ行く

【県指定文化財】首里金城町石畳道ひとり旅



旅トレーダーによるFX講座

雑談なし!FXに人生の全てを賭けるぐらい気合いの入ったトレーダーへ向けた【ガチのFX手法】をマジメに本気で惜しみなくお伝えする専業トレーダーによるセミナー ※ブログやYouTubeで表面的・基本的なことを学んでから受講して下さい。