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【平泉】観自在王院跡ひとり旅
の続き。
これは2023年10月26日の旅です
毛越寺はモウツウジと読みます。通常【越】はツウと読みませんが慣用音でオツと読むことがあります。従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したものです。確かにモウオツジは発音し難いですね…
慣用音とは一般に使い慣らしてきた漢字の音。間違って定着したものや発音しやすく言い換えられたもの。
前回訪問した観自在王院跡のすぐ隣にある世界遺産…っていうか世界遺産多過ぎ。嘉祥3年(850)慈覚大師が東北巡遊のおりこの地に差し掛かると一面霧に覆われ一歩も前に進めなくなりました。
ふと足元を見ると地面に点々と白鹿(はくしか)の毛が落ちておりました。大師は不思議に思いその毛を辿ると、前方に白鹿が蹲っておりました。
大師が近付くと白鹿は姿を掻き消し、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現われ『この地に堂宇を建立して霊場にせよ』と告げました。
大師は「こ、この老人こそ薬師如来の化身に違いない!」ってことで一宇(いちう:一軒、一棟(ひとむね))の堂を建立し嘉祥寺(かじょうじ)と号しました。
これが寺伝による白鹿伝説で毛越寺の起こりとされます。
円仁が白鹿の毛に導かれて…ここから毛越(けごし)という地名が生まれたと。
毛越寺は平泉中尊寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に四寺廻廊(しじかいろう:9世紀に円仁(慈覚大師)が開山し、17世紀には松尾芭蕉が訪れた東北地方の4つの寺を廻る巡礼コース)を構成しています。
立石寺は2022年11月09日に行きましたし中尊寺はこの後行きます。瑞巌寺は2024年4月に行く予定。
医王山毛越寺金剛王院は仁明天皇の嘉祥3年(850)天台宗の高僧慈覚大師が創建したと伝えられています。
中枢伽藍(がらん:僧侶が集まり修行する清浄な場所)(根本中堂)を嘉祥寺と称し大師自作の医王善逝(ぜんぜい:煩悩を断って悟りの彼岸に去った者)の霊像を本尊としています。常行堂(じょうぎょうどう:常行三昧を修する堂)も創立され、ここで秘法を修したといいます。
根本中堂(こんぽんちゅうどう)について
単に根本中堂と言った場合、延暦寺根本中堂↓
を指すのが一般的だが、天台宗では本堂に当たる堂舎を根本中堂と呼ぶことがある。
を指すのが一般的だが、天台宗では本堂に当たる堂舎を根本中堂と呼ぶことがある。
常行三昧とは堂内に安置された阿弥陀仏の周りを常に歩行し、その仏名(ぶつみょう)を唱え、心に仏を念ずる行法。
清和天皇の貞観11年(869)1月、「北門擁護の御願寺(ごがんじ)たるべし」との詔勅(しゅうちょく)がありましたが、その後、盛衰と共に堂社僧坊が荒廃していきました…寂しい~御願寺天皇、皇太子など高貴な人の願によって建立された寺。要するに勅願寺のことですね。
それから百数十年の月日が流れ―――堀河天皇の長治(ちょうじ)年中(1104-6)、時の領主藤原清衡(きよひら)、基衡(もとひら)父子によって再興され、常行堂も復興されました!やったね!鳥羽天皇(1103-1156)に至り、勅使左少辨富任(さしょうべんとみとう)により円隆寺(えんりゅうじ)の宣下(せんげ:天皇の命令を伝える公文書の公布)を受けたといわれ、勅額及び国家鎮護の勅願文を賜りました。
左少辨律令制で太政官左弁官局の第三等官。正五位下相当。…要するに公務員の役職ですな。富任は…勅使の名前??
円隆寺について京都府舞鶴市などに同名の寺院があるが、ここでは基衡の命で毛越寺境内に建立された金堂円隆寺を指す。
要するに左少辨という官職の使者、富任さんが円隆寺で書類を受け取った…ってことかな。藤原秀衡(ひでひら)は社堂坊舎を増築し、その数は堂搭四十余宇、僧坊五百余宇と吾妻鏡(あずまかがみ:鎌倉幕府が編んだ歴史書)にも記されています。
後鳥羽天皇の文治5年(1189)、先に藤原秀衡を頼って落ち延びて来た源義経が秀衡没後、藤原泰衡(やすひら)に攻められて高館で自害。その泰衡も源頼朝に討たれ(弟の仇!)藤原氏は没落。頼朝は寺を巡視して武門の祈願所とし、寺領安堵の壁書を円隆寺の南大門に掲げました。
土御門天皇の承元(じょうげん)年中(1207-11)には時の幕府が修営を命じその旧観を保持。
順徳天皇の建保2年(1214)には後鳥羽上皇が一字三禮(いちじさんらい:写経の際、1字書く毎に仏に3度礼拝すること)の法華経を納め、時の別当二位禅師良禅(りょうぜん:真言宗の僧)に祈願修法(しゅほう・ずほう)の儀の宣旨(せんじ:天皇の意向を下達すること)がありました。
別当本務のある者が別の職務を担当すること。
修法祈祷の作法。壇に本尊を安置し、護摩を炊き、印を結び、真言を唱え、仏菩薩を観じて行者(ぎょうじゃ)と本尊との三密の一致を得ることにより願いを達成しようとするもの。
三密(さんみつ)密教で身・口・意(しん・く・い)の三業(さんごう)。印を結ぶ身密(しんみつ)、口に真言を唱える口密(くみつ)、心に本尊を観念する意密(いみつ)。決してコロナ対策のことではない。
後堀河天皇の嘉禄2年(1226)11月、円隆寺、嘉祥寺、講堂、経蔵、鐘楼、経楼、文殊楼門等が焼失。後醍醐天皇の建武4年(1337)には、隣山中尊寺も金色堂と経蔵(きょうぞう:経典などを収蔵)の一階だけを残し全て焼失しました。室町時代になり、正親町(おおぎまち)天皇の元亀4年(1573)3月、領主葛西氏と大崎氏との戦火のため、常行堂、法華堂を残して、南大門、大阿弥陀堂(観自在王院)、小阿弥陀堂をはじめ、残りの社堂、坊舎を瞬く間に焼失。
後陽成(ごようぜい)天皇の天正19年(1591)、豊臣秀次(ひでつぐ)が九戸(くのへ)凱旋の折立ち寄って旧跡を巡覧し「衆徒の還り住むべき」の教書を下し若干の寺禄を寄附しました。
衆徒(しゅと)大寺院に居住して学問・修行の他、寺内の運営実務に当たった僧侶身分のこと。
しかし、最後まで残った常行堂、法華堂も、慶長2年(1597)4月には野火のため惜しくも焼失してしまいました。中御門天皇の享保13年(1728)、常行堂だけが再興され、祭礼その他諸掛(しょがかり:その他諸々の費用)を負担していた別当大乗院が、その後、堂を本坊に寄附しました。
大乗院十七坊ある毛越寺の支院の1つ。岩手県西磐井郡平泉町平泉毛越163にある。
天明6年(1786)正月二十日に訪れた菅江真澄は祭礼を見て『かすむ駒形』を残しています。また、文政5年(1822)10月1日には、領主伊達斉義(なりよし)が北方巡視の折立ち寄り、常行堂にて延年の舞を見た記録が残っています。
延年の舞平安末期~室町時代に栄えた寺院芸能の一種で、法会・法要などで舞ったものと伝わる舞楽。神社へ奉納するための舞であるため、地元では神楽舞として継承。
明治9年(1876)7月、明治天皇が義経堂(ぎけいどう)にお立寄りになった際は寺僧樹陰で古楽を奏し、鳳輦(ほうれん・天子の乗り物)を迎えました。
高館(たかだち)義経堂仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てた。中には義経公の木造が安置されている。
平成元年に本堂を再建し、本尊薬師如来、脇士日光月光菩薩を安置しています。う~ん、結局いつから毛越寺と呼ばれるようになったのか分かりませんね。地名から自然発生的に…でしょうか。
宝物館
宝物館からの景色
芭蕉句碑英語バージョン
芭蕉の真筆バージョン
英語の方が読みやすい。
本堂…平成元年に再建されたやつですね。
大泉が池
開山堂
嘉祥寺跡が見えてきました。
嘉祥寺跡
円仁が最初に堂を建立した場所。
講堂跡
1573 戦火で焼失
逆光チャレンジ
鐘楼跡
常行堂
1728に再興されたやつ?
鐘楼堂
人間国宝香取正彦氏作
大泉が池
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