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高島城でお花見して八重垣姫と諏訪湖でBBQひとり旅
の続き。
これは2025年4月17日の旅です
蔦(つた)稲荷神社1799年に諏訪藩主の病気平癒を祈り伏見稲荷大社から勧請したのが始まり。当時の第6代藩主、諏訪忠厚(ただあつ)は具合が悪かったんですかね?
左にある石碑は昭和8年(1933)の南信日々(なんしんひび)新聞社(現:長野日報社)による人気投票で南信地方の霊場として第2位に選ばれた記念碑。
病気がちだった忠厚の目を盗み、寵愛されていた家老の諏訪頼保(よりやす:通称大助(だいすけ)。高島城二の丸に屋敷があったことから二之丸家とも)が藩の政治を私物化して贅沢に耽るという、藩の財政を揺るがす深刻な不正問題が起きていました。
安永8年(1779)3月〜6月、専横を極めた家老の暴政に耐えかねた他の重臣が、江戸にいた忠厚に命がけで告発を行います。何故命懸けなのかというと、藩主に信じて貰えなければ処刑されるから。
これによって悪徳家老が失脚し、計19人が処罰されるという高島藩の歴史を揺るがす大スキャンダルが勃発。
神前幕の神紋は焔宝珠(ほのおほうじゅ/えんほうじゅ)。宝珠にはドラゴンボールの効果もあるので、藩主の病気平癒には打って付けです。
このお家騒動は二之丸騒動として語り継がれますw
社殿内部の左に掛けられている絵は、湯立(ゆだて)神楽の様子。
左側の女性は笹の葉を持って神前で舞っている巫女。中央にあるのは湯釜。右下の4人の男性は神職、または組(お囃子衆)と呼ばれる楽師たち。
何故この神社にこの絵が掛けられているのか?
それはここのご由緒の三段落目に答えがあります。
延享三丙寅年(えんきょうさんひのえとら:1746)に諏訪上社旧神宮矢島正守(儀式のトップ)、茅野光豊(みつとよ)神主(神楽のプロデューサー)が湯立神楽を行っています。
まとめw
そういえば、神楽では巫女さんが笹の葉を持っていましたが、ここの神社名は蔦ですよね。殺菌効果のある笹や竹は神の依り代として古来から信仰されているのは分かりますが…
蔦は他の木や壁に根を張り、どこまでも力強く伸びていく特徴があります。藩主が病気になった際、蔦のようにしぶとく生き永らえて欲しいという願いや、お家騒動を乗り越えて繁栄して欲しいという祈りを込めて蔦の文字を冠した…という説。
元々の神社の場所である高島城の石垣や庭、屋敷の周りに蔦が絡まっていた…という説があります。
湖明館(こめいかん)通り
欅並木の珈琲屋さん
休憩がてら立ち寄りました。
焙煎機があります。
久しぶりに本格的なコーヒー頂いて、美味しかったのでおかわりしました。二杯目は割引されます。
ごちそうさまでした。
ネオステーションホテル上諏訪
教念寺駐車場
?言地蔵尊
源海山(げんかいざん)教念寺
八剱(やつるぎ)神社駐車場
以前ご紹介した御神渡りを現地で確認し、氷のせり上がり方や割れ目の走り方などを過去のデータと照らし合わせて世相を占う役目を代々担っているのがこの神社の神職さんたち。
御神渡り拝観の様子。
最近は諏訪湖が凍らなくなったため占いの頻度は減りましたが、直近で言うと2018年の状況が昭和13年(1938)及び昭和20年(1945)の記録と酷似していると判断され…
天候:前半は不安定なるも後半は順調
農作物の作柄:やや良(豊作の傾向)
社会情勢(経済):明るい兆しあり
と占われました。
2018年の新聞記事
八剱神社には天和3年(1683)からの記録「御渡り帳」が保管されています。
明治4年(1871)に明治維新など政治的な理由(迷信だ!非科学的だ!近代国家に相応しくない!)や神仏分離の影響、行政システムが根本から変化し、誰が責任を持ってどこに報告すればいいのか?が分からなくなったりで中断しましたが、明治26年(1893)に湖上御渡注進録として復活し、これも八剱神社が保管・管理しています。
ここで感動的なお話が…先述のような理由で公式な報告や儀式は途絶えていましたが、八剱神社の氏子(小和田(こわた)村の有志)達は毎年極寒の諏訪湖へ赴いて個人的に結氷の観察とメモを継続していました!
1683年以前は諏訪大社上社の大祝の家系が御神渡り拝観を担当していたので、その時の記録(1443~1681)は当社神幸記(とうしゃしんこうき)として保管されています。
嘉吉三年(1443)の記録
「今月8日の夜に湖面が凍り、10日の朝6時頃、神様が下社側へ渡られた(御神渡りが起きた)。下社側の岸辺の氷は消えてしまっていたため、上渡(かみわたり=戻ってくる筋)は見えなかった」と書かれています。
ちょっと綺麗に書き直したやつ。
1682年が抜けているが?
これはフォーマットを当社神幸記から御渡り帳へ変更する移行期間で、記録・管理自体は諏訪大社が担当していたと思われます。もしくは湖面が凍らなかった。
その翌年、御渡り帳と共に拝観や記録、保管を御神渡りの現場に近く、現場を良く知る小和田村の住民(八剱神社の氏子)に引き継いだ…こんな所だろうと思います。
一般的には1443年が最古の記録とされていますが、応永4年(1397)の御渡注進状扣(おわたりちゅうしんじょうひかえ)にも御神渡りの記録があります。
當大明神御渡之事(当大明神御渡の事)
今月二日夜凝結湖水(今月二日夜、湖水凝結し)
同四日巳刻自當社濱下御(同四日巳刻、当社浜より下御して)
下宮濱氷消て上渡不見候(下宮浜氷消えて、上渡見えず候)
12月2日の夜に全面結氷(けっぴょう)。1443年は12月8日結氷だったので、この年の冬は更に1週間ほど早く強烈な寒波がやってきていたことが分かります。
2日後の12月4日の午前10時頃、上社側の浜からバーンと音を立てて御神渡りが走りました。そして下社側は1443年と同じように、岸辺の氷は溶けてしまっていたため神様が戻ってきた筋(上渡)は確認できなかったと記録されています。
年表
そういえば八剱神社の創建年代が謎のままなので少し考察します。
豊臣秀吉の家臣である日根野高吉が天正18年(1590)に高島城の築城(改修)を計画した際、その予定地に鎮座していたのが八剱神社と高島村でした。
日根野高吉は、この八剱神社と高島村を丸ごと現在の小和田へ強制的に遷座させます。
つまり、八剱神社はそれまで現在の高島城址にあったと。これを踏まえて話を進めます。
最初に御神渡りを担当していた諏訪大社上社は守屋山の麓にあり、諏訪湖からは距離があります。
もっと言うと、記録に書かれている御神渡りの起点、つまり観測場所は高島城址がある場所です。
諏訪湖の湖岸は現在より高島城址に迫っており、その場所がまるで島のようだから「高島」と呼ばれていたことは少し前にお話しした通りです(実際には半島や陸繋島)。
周囲が湖に囲まれ、見通しも良く観測所として適していたのですね。なので上社が担当していた時も、例えば出先機関のようなものが八剱神社付近(現・高島城)にあったと考えられます。
何故なら寒い時期に上社から毎日観測場所まで湖面を見張りに行くのは交代制だとしてもキツイですし、夜中に起きるかも知れませんし。
そういう理由で、記録では1683年から八剱神社の氏子が担当となっているが、実作業、少なくとも儀式のサポートはもっと以前からやっていたのではないかと推測出来ます。
これらのことを踏まえると14世紀には八剱神社が存在していたのではないかと思います。
ご由緒です。今までの話と矛盾してないかな?
総本社は名古屋にある熱田神宮の別宮である八剣宮(はっけんぐう)。熱田神宮といえば草薙神剣ですよね。元明天皇の和銅元年(708)、新しく特別な神剣を造り、それを祀るため境内に建てられたのが別宮八剣宮の始まり。
では何故、高島の地に八剣宮を勧請したのか?
諏訪湖周辺の人々にとって湖は船を使った交通や漁業が暮らしの全てを支える一大インフラでした。
しかし、ひとたび大嵐が来れば船は簡単に転覆してしまうため湖の安全を司る強力な神様がどうしても必要でした。
古くから八剱宮はヤマトタケル(天叢雲剣で草を薙ぎ払った人物)が東征の際、海で嵐を鎮めた伝説などから海上守護神として絶大な信仰を集めていました(海を鎮めたのは奥さんの弟橘媛ですが…)。
そのため湖全体の安全を祈るため勧請されたのです。
実際、当時の八剱神社は諏訪湖を通る船から集める船手税(ふなてぜい:造船税・通行税)などを財源に運営されていました。
もう一つの理由は諏訪の八剱神社が祀っている神様そのものにあります。
総本社の八剣宮の主祭神は「天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛、建稲種命」の5柱ですが、高島(現在は小和田に遷座)にある八剱神社の主祭神は八千矛神(大国主命)、日本武尊、誉田別尊です。
八剣宮から勧請したのに主祭神が異なる(日本武尊だけは被ってますが)…よくある事ではあるのですが、ここの場合、その理由はもちろん諏訪大社上社にあります。そこでお祀りされている神様は言わずもがな建御名方神で、大国主命はそのお父さん。
海上安全のご利益として八剣宮のブランドやシステムだけを勧請しつつ、諏訪周辺は地元に縁のある親子タッグで強力に守るという思いがあったのでしょう。
参道は南西を向いています。左側に辛うじて御柱が写ってますね。
拝殿
百姓昭明万邦協和(ひゃくせいしょうめいばんぽうきょうわ)は中国の古典『書経』の一節で「すべての国民の心が明るく通じ合い、世界中の国々が協力して平和になる」。
拝殿の更に奥、三方(さんぽう:丸い穴の開いた木の台)とそれに乗っている神饌(しんせん:食べ物)や御神鏡、御幣(ごへい:元々は衣服の代わりとなる麻や布だった神の依り代)があるのが拝殿と本殿を繋ぐ幣殿。本殿への扉には上社と同じ根が4本の梶葉紋。
左右の黄緑色の布は五色絹の真榊(まさかき)。これ、御頭祭でも見ましたね。上部に榊の葉が飾られ、陰陽五行説に基づく五色(緑・黄・赤・白・黒)の長い布が垂れ下がっています。この世界を構成するすべての要素を表し、邪気を払って空間を最も格の高い聖域にするためのアイテム。
白い紙垂(しで)が大量に結び付けられたお祓い道具は大麻(おおぬさ)。
五色絹の真榊や御幣など、食べ物以外の神様へのプレゼントを幣帛と言いますが、明治以前の例えば延喜式など古代の神道には神饌も含んで幣帛と記されていました。
その幣帛を捧げる場所だから幣殿と呼ばれているんですね。
今では既製品の飲食料品がお供えされることが多いですが、かつてはこんな感じだったそうです。神社の規模にもよると思いますが。
拝殿の左には扁額も立札もない無地の小屋が。儀式の道具などが保管されているのかな?まさかここに御渡り帳が?だとしたらちょっと不安ですねw
厳島大神
厳島神社の神様(宗像三女神=市杵島姫命など)が水上の守護神なのでここに祀られているのですかね。
その隣に大き目の社殿があり右から菅原神、大國主神、事代主神の3つがテラスハウスのように入っています。
大國主神は先ほどお話ししたようにタケミナカタのお父さん。事代主は異母兄弟。菅原道真(天神様)は寺子屋が普及した時代に勧請するのが流行ったのでその名残でしょう。
稲荷社
小さな祠にもちゃんと4本の御柱が立てられています。
穏見(おだみ)神社
ここにしか存在しないオリジナル神社。主祭神は物部氏系の神話である先代旧事本紀に登場する天八現津彦命(あめのやつあきつひこのみこと:事代主の息子)。大和朝廷によって隠蔽されたアレです。
八:くまなく
現:はっきりと
津:格助詞「~の」と同じだが、水に関係あるとも言える
彦:男性
出雲の国譲り神話で隠れた事代主神には子供(天八現津彦命)がおり、その一族は水上を支配する強力な長(国造)として各地の海や湖の境界線をじっと観察し見守る役割を引き継いでいった…
新海神社(しんかいじんじゃ)
主祭神は先代旧事本紀に登場する興波岐命(おきはぎのみこと:弥生時代?)。総本社は長野県佐久市の新海三社神社で主祭神は後醍醐天皇の孫(又はひ孫)の興良親王(おきながしんのう)。
事代主神(えびす様)の子孫が信濃の海(湖)を開拓した神話に於いて、先ほどの穏見神社の神様の系統にあたる子孫たちは山に囲まれた信濃の国へと移り住みました。
そして当時まだ巨大な湖や沼地(海)のようだった佐久盆地や諏訪地方の水を抜き、人々が安心して暮らせる豊かな平地を新しく切り開いた(新海)という国造りの伝説を持っています。
古代の諏訪湖に於いて「湖の水を抜く」などの大規模工事があったことは地質学でも証明されています。
では興波岐を分解してみましょう。
興:おこす、引き上げる、新しく始める。古語の沖(おき=水深の深い場所)とも重なっており、深い水の下にあった土地であることを示す。
波:なみ、水の勢い、水面
岐:わける、切り離す、水路を作る
ということで興波岐命は諏訪湖に流れ込む大量の荒れ狂う水(波)を、新しい水路(千曲川や天竜川)へ切り分けて流し去る(岐)ことで、泥の下から豊かな大地を新しく引き起こした(興)神様。
ここまでの事を纏めると、八剱神社には…
大國主神=すべての源である初代
事代主神=国譲りのあと水辺に隠れた2代目
穏見神社(天八現津彦命)=水辺をじっと観察し続けた3代目
新海神社=その力を受け継ぎ信濃の湖や土地を新しく切り開いた4代目
が祀られていることが分かります。
その隣には右から厳島社、山ノ神社、山ノ神社があります。厳島大社は先程もありましたし、山ノ神社に至っては2つ並んでいます。
境内に同じ神社が重複している理由
明治時代、西園寺公望内閣は「1つの村に何個も神社があるのは無駄だから一村一社に纏めなさい」という神社合祀(じんじゃごうし)令を出しました。
貴重な歴史が失われるとして南方熊楠(みなかたくまぐす)が激しい反対運動をしていたことでも知られています。
南方の反対運動虚しく、この令により小和田地区周辺の祠がこの八剱神社へ強制的に遷座させられることになります。
その際、氏子達は「同じ名前なんだから1つに混ぜてしまおう」とはせず、「元は別の神社なんだから、名前が同じ、又は似ているからと言って一緒くたにするのは失礼なのでは…」と考えたことで境内に似た名前、又は同じ名前の摂社・末社があると。これも神社あるあるです。
右から御柱宮司社、明神社。それぞれに4本の御柱がちゃんと立てられています。
御柱宮司社は、まぁ説明不要ですよね。
明神社。全国にある神社ですが、ここ諏訪にあると意味が決まってきます。それはタケミナカタ、つまり諏訪明神のことですね。
ここまで大国主から始まり出雲系の神様が多く登場しましたが、諏訪の主人公であるタケミナカタがまだでした。それがここに祀られていると。
更に左奥…何も書いてないが、恐らく道祖神社(道祖神)と思われます。主祭神は天狗のような道案内人の猿田彦大神。
ここは拝殿の右奥で裏参道の入口(鳥居もある)に当たる場所ですが、そこに祀られていることからも道祖神である可能性が高い。
何故なら道祖神の任務は悪い物が入ってこないようシャットアウト(魔除け)することだから。
2つ並んでいる理由は山ノ神社が並んでいた理由と同じ。
道祖神の裏には石碑や祠がごちゃっと並んでいます。一番左には西國三十三所觀世音菩薩、その右には素?之墓と彫られています。
本殿右奥の参道入り口
大木や御柱が道を塞いでいますw
その大木から、今まで通ってきた道を撮影。
拝殿左側へ回りました。大きな石碑に排水記念碑と書かれています。正式名称は天竜川開鑿(かいさく)記念碑。
—現代語訳—
僅かな雨でもすぐ諏訪湖が溢れ、大きな被害を齎(もたら)していた。そのため住民が安心して暮らせず、古くから高島藩の頭痛の種であった。
そこで天正16年(1588)の金口の掘割(ほりわり)工事や享保11年(1726)の満水堀(まんすいぼり)の開鑿、文政11年(1828)の弁天湾の改修など歴代の藩主たちが天竜川の川幅を広げたり水害を防ぐための治水工事を何度も試みてきた。また、(明治時代になってからも)筑摩県(ちくまけん)や長野県によって何度も川底を掘り下げる大規模な工事が行われ、臨時の救済措置が取られてきた。
そもそも、この小和田の地は水が豊富なため水車を利用した精米業がとても盛んで町の経済を支えていた。
しかし数十年前に新しい精米技術が広まると、今度は製糸業(シルク産業)が爆発的に発達!
これによって住民たちの暮らしは大いに潤ったものの、その一方で明治43年(1910)には諏訪湖が大氾濫を起こした。
この時の洪水はとりわけ激しく、農産物の被害や家々の損害は合計で100万円(※現代の数十億円規模)に達した。特に私たちが今いるこの小和田地区の被害は最も悲惨で、浸水被害は数ヶ月に及び、まさに目も当てられない惨状であった。
ここにおいて小和田の有志たちは「これ以上ただ天を仰いで涙を流しているだけでは駄目だ。水害の根本原因を断ち切らなければならない!」と固く決意。そこで天竜川の川底を更に深く掘り下げて水の流れを良くする(排水能力を高める)ための壮大な計画を立て、長野県知事へと熱心に請願を繰り返した。
この大工事を行うためには、これまで川の途中にあった製糸工場や精米所で使われている多くの水車組合の権利を買い取って撤去しなければならなかった。有志たちは寝る間を惜しんで説得に回り、莫大な補償金を支払ってこれをすべて解決した。
こうして国や県の全面的なバックアップのもと、天竜川の川底をこれまでにない深さへと浚渫(しゅんせつ)する大工事が見事完成した。工事完了後、諏訪湖の水位は目に見えて下がり、かつて小和田の町を何度も沈めてきたあの恐ろしい洪水はこれ以降完全に一回も起こらなくなった。
泥深い沼地だったこの場所が今こうして安心して暮らせる豊かな街になったのは先祖たちの命がけの努力と国や県の協力、そして何よりも地元住民の一致団結があったからである。この偉大な歴史の事実と先祖たちのガッツの記憶を未来へ伝えるためここに記念碑を建てる。
大正三年十月 貴族院議員従二位勲三等子爵 加納久宜(かのうひさよし)題額 長野県知事従五位勲五等 力石雄一郎謹文
左:力石雄一郎、右:加納久宜
拝殿を取り囲むように石畳の参道が正面鳥居から続いています。
桜咲いてますね。
四百年會碑(かいひ)。恐らく1590年に高島からこの地へ遷座してからの400年でしょう。つまり1990年に建てられた。
正面鳥居と拝殿のど真ん中に神楽殿があります。確か諏訪大社もそうなっていました。ここで湯立神楽が行われていたとか?
笹には殺菌作用ありますよね。その葉を熱湯に漬けて笹エキスが溶け出したお湯やミストを「オリャー!」と巻き散らすことで感染症対策になっていたのではないかと。
特に養蚕なんかをやっていると、雑菌が繁殖して全滅したりすることもあったでしょうし、その対策兼祈りの儀式ですかね。
お手水です。回る順番がメチャクチャですがw
正面鳥居。注連縄からは7本の藁垂(わらだれ)、その間に6枚の紙垂が下がっています。
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