大多喜城ひとり旅



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國吉神社&上総出雲大社ひとり旅

の続き。

これは2024年4月2日の旅です

7:46am
大多喜城 城下駐車場


桜は三分咲きってところか。


放置自転車


売店


ここから先、一般車では行けませんので歩いて行きます。


施設が休館していても散策は可能です。


上ります。


静かで良い所です。


途中に大多喜城二之丸公園があります。


マップ


公園に入りました。梵鐘への案内板。折角なので行ってみます。


大きな東屋


東屋から少し上った所に梵鐘ありました。
撞木が無いどころか立入禁止になっており、鐘を撞くことも触れることも出来ません。


梵鐘以外にはベンチがいくつかあるだけ。公園入口に戻ります。


研修館


新しい仲間のスミランパサランです。


大多喜城と桜のコラボ…ですが、桜がまだ…


大永元年(1521)真里谷信清が小田喜城(おだきじょう)として築いたのが始まりとされています。

信清の後を継いだ真里谷朝信は天文13年(1544)、里見氏の武将正木時茂により城を奪われてしまいます。以後時茂、信茂、憲時の3代に渡り小田喜城は正木氏による上総国東部支配の拠点とされます。

そんな中、憲時は天正9年(1581)、里見義頼との内紛によって殺害されてしまいます。そして同城には里見氏の代官が派遣されることになります。

天正18年(1590)、里見氏は豊臣秀吉による惣無事令違反を理由に上総国を没収されます。そして同国は徳川家康に与えられ、配下の本多忠勝が城主となり大多喜藩10万石が成立。

忠勝は里見氏の北上を防止するため城の大改築と城下町の建設を行います。これが今日の大多喜城となります。

以後、このお城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきましたが、元和5年(1619)9月、藩主阿部正次が拠点を移したことにより大多喜藩は一時的に廃藩となり城は荒廃してしまいます。

それから数十年の月日が流れ…寛文11年(1672)の12月、阿部正春が1万6千石で入城した際、幕府から

「大多喜城が荒廃しちゃってるからリフォームするように」

との命が下ったものの

「一重の塀も無い有様で門も櫓もない…」

という当時の記録通り、大多喜藩の規模縮小に伴い荒廃したままだったそうです。要するに藩が小さくなってしまったため、そんなところに供給力を回す財政的な余裕が無かったんですね。

元禄3年(1690)の幕府隠密による調査記録と思われる土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)にも

「幕府から大多喜城の再建命令が下されたのに大多喜藩はそれをやってない。塀すら無い状態なので、門や櫓などあろう筈もない」

と記されています。

史料が少ないため江戸時代の状態は不明な点も多いですが、阿部家以降の城主は多少の増築は行ったようです。が、山頂の天守などは荒廃していたようです。

そんなこんなで百数十年後の天保13年(1842)には天守が焼失。代わりに2層の神殿と称する建築が天保15年(1844)8月に行われていたと考えられています。

明治3年(1871)12月には城が取り壊され、本丸も削平(さくへい)されてしまいますが、昭和41年(1966)に本丸跡が千葉県の史跡に指定されます。

昭和50年(1975)には城跡に天保6年(1835)の図面を基に天守を再建。内部には千葉県立総南博物館が設置されます。

平成29年(2017)4月6日、続日本100名城(122番)に選定。

お城が博物館になっていますが2021年から休館しています。


ほこり先輩!よろしくお願いしやす!


さて、ここに荷物を置いて…


お城を空から見てみましょう~


千葉県立大多喜高等学校


夷隅川ってアマゾンみたいにクネクネと、これぞ川って感じでなんかいいなぁ。


お城をもう一枚


大多喜町シンボルキャラクターおたっきー





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